奇跡の二時代ー信長が愛した町に生まれてー

日本史上奇跡の二時代と呼ばれる時代に織田信長ゆかりの地で生まれ育った団塊世代の追想譜

生まれる時代は選べない

 

 

 

人は、生まれたときすでに自分の意思では選択できない三つのものを背負っています。

   

〇 生まれた国

〇 両親

〇 生まれた時代

 

このうち、生まれた国や両親は変えることはできませんが、束縛され続けるものでもなく、生まれた国から出ることも自由ですし、両親は、成長すれば距離を置くことができます。

でも、生まれた時代は、それこそ運命です。

 

戦後の昭和という時代に生まれ、世界中が波乱に満ちた激動の20世紀、そして100年に一度の世紀を超えた21世紀の時代風景をも見ることができています。

 

歳月は、音もなく来て去り、平穏な日々の夜と昼を重ねながら、幾春秋を迎え、送る。

限られた行動半径で生きる日々で、出会いと別れを繰り返す。

それぞれの理由があり、あるがままを受け入れて市井の片隅で一生懸命自分の仕事に励み、周囲の人間関係と折り合いをつけながら静かに暮らす。

 

そんな中で、

暮らしや人生に彩りを添えてくれるのが、歌や本であり、映画であり、テレビの時代になれば、感銘を受けるドラマと巡り合うこともあり、この時代に生まれてよかった幸せをしみじみ感じるのが今、人生時間の残りを数える暦年齢となって、過ぎた歳月をふり返れば、

〇 美空ひばりさん

〇 東映時代劇

〇 舟木一夫さん

 

私が育ってきた時代背景に、まさしく正面衝突したような出会い方をしました。

 

日本の国自身が、いや、もしかしたら神様が、敗戦国の汚名に打ちひしがれないように、国民の負けじ魂を支えるために、この御三方を世に送り出してくれたのだと思えるのです。

御三方に共通するのは、何よりも明るい。

夢や希望を持たせてくれるんです。

悲しみに泣いていたとしても、いつの間にかそばにいて何も言わず寄り添っていてくれる。

 

人は、悲しいとき花のそばへ行き、

淋しい時は水のそば(川とか海、池、湖)へ行く、という言葉があります。

 

さらに凄いのは、今も尚、戦後昭和の時代から21世紀も早や20年余を過ぎて尚、

この御三方の存在が色褪せることなく、私たちのこころと生活の中で輝いていること。

 

 物心ついたころからひばりさんの歌声は聞こえてきて、映画が娯楽の王様と言われた時代から美空ひばりさんの時代劇ミュージカルともいうべき楽しく明るく美しい銀幕の向こうのひばりさんが大好きでした。

 

東映時代劇の黄金期といわれた時代に正面衝突したような私たちには、見ないでどうするというような気がして映画館通いの日々。

 

その二つだけでも人生の彩りとしては充分大満足できますが、まるで天から降りてきてくれたような人が舟木一夫さんでした。

 

私が生まれ育った土地とは地場産業でも密接な繋がりのある一宮市で突如、青春という大凧を揚げてくれたのです。

まさしく私は16歳の高校2年生。

体育祭、文化祭、秋には楽しい修学旅行を控えていて、青春真っ盛り。

 

とはいえ、

当時は、それほど青春、青春と誰も言わず、青春ものの歌も映画もありませんでした。

アニメどころかマンガも少女マンガで、高校生はもうマンガから卒業しています。

マンガは子供が読むものでした。

文化、つまりカルチャーのジャンルは大人のものばかりでしたから。

戦後昭和を子供の視点で見つめ、目まぐるしく経済成長をしていく日本の姿は、

奇跡の二時代の後半と言われ、

まさに私たちの親世代=戦争体験者と私たち世代が作り上げてきました。

 

美空ひばりさん、東映時代劇、舟木一夫さんの存在あればこその青春の日々は色褪せるどころか、今も尚、輝きを放ち、私たち世代の心に満ち溢れているのです。

 

シニア世代の人生に、清らかな思い出の灯を今も温かい光でかざし続けていてくれます。

 

生まれる時代は選べない。

この人たちと同時代に生きられて本当によかった、巡りあわせの幸せを噛みしめています。

 

 

 

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奇跡の二時代とは...(2)



 

戦後昭和は、昭和31年の経済白書に、【もはや戦後ではない】という言葉があり、それは戦後の復興というより、新しい時代を築くということのようです。

 

戦後の日本経済を牽引してきたのは、

家電業界では松下電器松下幸之助氏、

自動車業界からは本田宗一郎氏と豊田喜一郎氏、

音響機器業界の現ソニーの創業者の井深大氏と盛田昭夫氏、

エンタメ業界では何といっても美空ひばりさん、東映大映、松竹、東宝、新東宝、日活などの映画会社、コロムビア、キング、ビクター、テイチクなどレコード会社。

 

出版界は、既存のものを世に出すので精一杯だったかも。

何といっても荒れ果てた国土、復興するにもまずは衣食住が最優先ですから、本や雑誌はそのあとだったのでしょう。

当然、空襲で印刷機も破壊され、職人さんたちも戦場に送られたままで帰還がむずかしく、印刷業界は後回しだったかもしれません。

 

すこし遅れて、宅配便という画期的なサービスを創業した小倉昌男氏、

コンビニ業界はもう少しあとですね。

 

私がわかるのは、美空ひばりさんが活躍した時代。

東映時代劇の黄金期でした。

大映も松竹も社風や芸風は違えど、時代劇作品を数多く世に出し、銀幕スターさんたちもきら星の如くいました。

 

経済的な面から見れば、

まず俳優さんたちが着る衣装、武士であれ、お姫様であれ、衣擦れの音がわかる高価な反物で作られた美しい衣装の数々、映画に出演している全員の衣装を縫う縫子さんたちも多忙を極めたでしょう。

 

城の全景はどこかの城を借りてロケをすればいいのですが、城内の廊下も襖も数は多いし、襖絵もそれなりの豪華さを必要とします。

 

鬘、かんざし、櫛、扇、草履など小物類もおびただしい数を誰かが作っているわけです。

 

経済面で言えば、

もうこれだけで国外に頼らずともこの業界だけで完結してしまうわけです。

映画が娯楽の王様と言われた時代ですから、作れば観客を動員できます。

映画は2本立て、しかも週の半ばに新しい映画に変わります。

昭和30年代は

映画館への入場料は30円、入れ替えなしですから、一日中見ていられます。

1週間に4本の映画が上映されていました。

今思えば、戦後間もない時代で休みも日曜日だけ。

大人たちはよく働いたのに、それでも映画館へ行く時間を作って見に行ったんですね。

テレビの普及率もまだまだでしたからやっぱり映画はいちばんの楽しみだったのでしょう。

戦争で荒れ果てた山河を復興させるために、人々は死に物狂いで働いて、唯一の楽しみが映画だったのです。

私の住む町は

当時人口4万人ほどで映画館は二館ありました。

実演もあるのです。

実演ってお芝居のことです。

当時は女剣劇が人気だったらしく、〇〇一座と幟を立てて、映画館が舞台に変わり、女優が男をバッタバッタとなぎ倒していく剣劇を見せるのです。

まだまだ男尊女卑の気風が残っている戦後によくやっていたなぁと今は思います。

 

 テレビが家庭の娯楽の王者となり、

映画館へ足を運ぶことが目に見えて減りましたが、

時代劇映画の灯が消えても、時代劇は舞台で人気の演目となります。

 

 映画で活躍したスターたちは、舞台でお芝居しますから、それまで映画でしか見たことがないスターさんが

舞台で、ナマで見られるということで女性客が詰めかけ興行界が活気づきます。

劇場へお芝居を見に行くというのは、ハレの日ですから、

それなりのおしゃれは必須です。

そのために洋服もバッグも買い、普段はつけないネックレスやハイヒールも買うのです。 

そして劇場内での飲食ももちろん楽しみのひとつ。

さらにその日の舞台に出演している役者さんたちの手拭いやプログラム、カレンダーや湯飲み茶わんなどのグッズを土産に買う楽しみもついてきます。

テレビや映画館とは別次元の楽しみです。

 

10数年ほど前ですが、

私の歌舞伎繋がりの友人は、新年の初春歌舞伎を大阪から東京へ見に行くために、着付けを習って晴れ着を着て新幹線で大阪から東京へ行きました。

この友人ひとりを考えてもかなりの経済効果をもたらしています。

 

舞台の芝居、一か月公演は、昼夜2回公演が普通でしたから、出演者が総勢50人としたら、衣装は300着余作るのだそうです。

舞台のセットも時代劇ですから特殊な大道具小道具さんが入ります。

 

エンタメ業界の中の映画や舞台公演だけでも経済は回りますし、

音楽の世界はヒット曲が出ればスター歌手が全国で歌謡ショー(今ならコンサート)ですね。スタッフやバンドのみなさんが一緒ですから、鉄道関係、宿泊、飲食でこれまた経済活性化でみんなが潤う時代でした。

 

他の業界も同様で、

男性たちが飛びついたのは、ホンダのスーパーカブ

主婦は電化製品の洗濯機や冷蔵庫、炊飯器やテレビなど。

 

若者世代は、舟木一夫さんという歌手さんが世に出て以来、レコードがほしい、蓄音機がほしい、テープレコーダーがほしいと消費熱は高まるばかりでした。

 

雑誌も、二大娯楽月刊誌の (平凡) (明星)と

映画情報に特化した (近代映画) (映画ファン)と

どれもこれも好きなスターのグラビアや記事、誰かとの対談などを見たくて読みたくて取り合っこするほど。

 

週刊誌も登場しました。

 

乗用車はまだ高嶺の花ですが、

自営業の人たちには小型のオート三輪が大人気でした。

 

酒屋さんなど重い商品を扱うお店や大工さんたちが道具を積んで遠くの現場へ行くのに大歓迎されたようです。

 

日本国内だけで生産と消費、需要と供給が見事に一致した時代は、

のちに一億総中流と言われるほどみんなが豊かになっていきました。

自分が働いている会社の製品が、テレビや自動車の部品のひとつかもしれない、それで右肩上がりの給料がもらえ、欲しかった自動車や電化製品を買いますから、売れればまた作る、作れば売れていくの繰り返しで

会社では、定年まで年功序列の出世が約束され、

主婦はデパートへ買い物に行くという憧れだったことが普通にできるようになりました。 

旅行も会社の慰安旅行でタダで連れて行ってもらえますから、ご近所へのおみやげをどっさり買って帰ります。

バス会社も観光地も潤います。

 

これが奇跡の二時代の後半の時代です。

 

プラザ合意で固定の為替レートが撤廃され、金融ビッグバンという政策もあり、

日本は世界を相手にグローバル化の波に呑まれていくことになります。

もう二度と、奇跡の時代が訪れることはないでしょう。

 

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奇跡の二時代とは.....(1)



以前、何かで読んだのですが、日本史上、奇跡の二時代と呼ばれる時代があるという記事です。

 

江戸時代の260年ほどと、戦後昭和20年代後半~40年代までの間は、日本人が日本国内で生産と消費、つまり需要と供給のバランスが見事なまでに一致して経済成長の基盤となったということです。   

                    

江戸時代は鎖国をしていましたから、外国との関りはほぼゼロでこれはわかりますよね。

外国からの軍事的、資本的圧力もなく、置かれた場所で花は咲く。

 

戦後昭和に起業した会社は、のちに日本を代表する大企業になります。

現在のように大企業でさえも、企業理念も経営の才覚もない外国の投資ファンドに売り渡してしまうような経営は想像もできません。

 

それぞれの場所で、

それぞれの規模で

ひまわりのような大輪の花も

コスモスのような可憐な花も、

それなりの存在意義を認めてもらって自分の居場所で花を咲かせることができていました。

 

 

私は、戦後昭和の生まれ、いわゆる団塊世代のひとりです。

そして生まれ育ったのは、愛知県の尾張織田信長関連のドラマや歴史番組では必ず紹介される(津島湊)がある津島市

 

津島湊は、小学校中学校高校へ通う通学路であり、

全国の牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)の総本山の津島神社へ参拝に船で来る善男善女が訪れ、当然ながら人が集まる場所はカネが落ちる。

商売繁盛の富裕な自由都市だったと記録されています。

 

この津島湊から、神事としての祭り船が出ます。

 

世界ユネスコ無形文化遺産に登録されました。

 

 

 

 戦国時代から津島五ケ村と呼ばれる地域に生まれ育ち、この祭り船も出している町内です。

 

若き日の信長が、津島湊へ頻繁に遊びに来て、カネがまわる経済ということを父、信秀の背中を見て、皮膚感覚で覚えたところでしょう。

 

女の着物を着て盆踊りしたり、

吉法師時代から元服して三郎になっても

津島へは頻繁に来ていたらしく、

津島祭りは、濃姫やのちの秀吉、前田利家などの家来とたちとも楽しんだようです。

 

華麗な絵巻のようなと形容詞がつく美しい祭りの様子がよほど気に入ったらしく、

のちに安土城を無数の提灯でライトアップしたのも、この祭りを再現したかったようだと言われていますし、

秀吉は、天下人となったとき、大阪へあの祭りを持ってこい!と言い出したと記録にありますが、

 

この祭りは、全国の牛頭天王社の総本山の神事ですから、大阪へ持ってこいなどと無茶はとんでもない話です。

 

現代でも、近隣の町に住んでいる人も、

「一生に一度は見たい!」と思われるようで、

私はものごころついた幼い日から、学校へ行く道順ですから、祭りの準備段階から当日のざわめき、祭りの日の御馳走づくりからすべてが当たり前でしたからそんなもんだと思っていましたが、

 

大人になって全国各地の祭り紹介する番組を見るにつけ、各地の祭りとは類似点がないなぁと思えます。

 

東京の御神輿を担ぐのとも違う、

祇園祭のように優雅に街中を練り歩くのとも違うし、

岸和田のだんじり祭りのように走り回ることはない。

近隣の国府宮のはだかまつりとは全く違います。

 

確かに、“華麗なる絵巻のようなと形容されるのも納得するほど美しい祭りです。

私の夫も結婚して私の実家へ来て初めて見たとき、こんなに美しいとは想像できなかったと言いました。

加えて、地場産業が成長産業だったころは、企業がスポンサーとなって盛大な花火を打ち上げてくれましたから、それはそれは美しい祭りとなっていました。

 

当時は、地元民だけで楽しんでいたのです。

いや、知られていなかったというほうが正解かもしれません。テレビもネットもない時代ですから...

 

今は、全国的にあちこちの祭りも花火大会も観光客向けのイベントになってしまって、経費は地元の税金で賄っているはずなのに、税金を納めている地元民を締め出しているようなところもあってなんか違うよなぁと憤りを覚えます。

一度だけ、愛知万博の会場でこの祭りを再現したことがあります。

 

 

 


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