奇跡の二時代とは.....(1)
以前、何かで読んだのですが、日本史上、奇跡の二時代と呼ばれる時代があるという記事です。
江戸時代の260年ほどと、戦後昭和20年代後半~40年代までの間は、日本人が日本国内で生産と消費、つまり需要と供給のバランスが見事なまでに一致して経済成長の基盤となったということです。
江戸時代は鎖国をしていましたから、外国との関りはほぼゼロでこれはわかりますよね。
外国からの軍事的、資本的圧力もなく、置かれた場所で花は咲く。
戦後昭和に起業した会社は、のちに日本を代表する大企業になります。
現在のように大企業でさえも、企業理念も経営の才覚もない外国の投資ファンドに売り渡してしまうような経営は想像もできません。
それぞれの場所で、
それぞれの規模で
ひまわりのような大輪の花も
コスモスのような可憐な花も、
それなりの存在意義を認めてもらって自分の居場所で花を咲かせることができていました。
私は、戦後昭和の生まれ、いわゆる団塊世代のひとりです。
そして生まれ育ったのは、愛知県の尾張、織田信長関連のドラマや歴史番組では必ず紹介される(津島湊)がある津島市。
津島湊は、小学校中学校高校へ通う通学路であり、
全国の牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)の総本山の津島神社へ参拝に船で来る善男善女が訪れ、当然ながら人が集まる場所はカネが落ちる。
商売繁盛の富裕な自由都市だったと記録されています。
この津島湊から、神事としての祭り船が出ます。
世界ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
戦国時代から津島五ケ村と呼ばれる地域に生まれ育ち、この祭り船も出している町内です。
若き日の信長が、津島湊へ頻繁に遊びに来て、カネがまわる経済ということを父、信秀の背中を見て、皮膚感覚で覚えたところでしょう。
女の着物を着て盆踊りしたり、
吉法師時代から元服して三郎になっても
津島へは頻繁に来ていたらしく、
津島祭りは、濃姫やのちの秀吉、前田利家などの家来とたちとも楽しんだようです。
華麗な絵巻のようなと形容詞がつく美しい祭りの様子がよほど気に入ったらしく、
のちに安土城を無数の提灯でライトアップしたのも、この祭りを再現したかったようだと言われていますし、
秀吉は、天下人となったとき、大阪へあの祭りを持ってこい!と言い出したと記録にありますが、
この祭りは、全国の牛頭天王社の総本山の神事ですから、大阪へ持ってこいなどと無茶はとんでもない話です。
現代でも、近隣の町に住んでいる人も、
「一生に一度は見たい!」と思われるようで、
私はものごころついた幼い日から、学校へ行く道順ですから、祭りの準備段階から当日のざわめき、祭りの日の御馳走づくりからすべてが当たり前でしたからそんなもんだと思っていましたが、
大人になって全国各地の祭り紹介する番組を見るにつけ、各地の祭りとは類似点がないなぁと思えます。
東京の御神輿を担ぐのとも違う、
祇園祭のように優雅に街中を練り歩くのとも違うし、
岸和田のだんじり祭りのように走り回ることはない。
近隣の国府宮のはだかまつりとは全く違います。
確かに、“華麗なる絵巻のようなと形容されるのも納得するほど美しい祭りです。
私の夫も結婚して私の実家へ来て初めて見たとき、こんなに美しいとは想像できなかったと言いました。
加えて、地場産業が成長産業だったころは、企業がスポンサーとなって盛大な花火を打ち上げてくれましたから、それはそれは美しい祭りとなっていました。
当時は、地元民だけで楽しんでいたのです。
いや、知られていなかったというほうが正解かもしれません。テレビもネットもない時代ですから...
今は、全国的にあちこちの祭りも花火大会も観光客向けのイベントになってしまって、経費は地元の税金で賄っているはずなのに、税金を納めている地元民を締め出しているようなところもあってなんか違うよなぁと憤りを覚えます。
一度だけ、愛知万博の会場でこの祭りを再現したことがあります。